北川智久 順逆曲直旋転心身

2月22日 関根秀樹先生の「武術と音楽の集い」に甲野善紀先生よりメッセージを頂きました

武術研究家 甲野善紀先生より


関根秀樹先生による「武術家のための民族音楽」このようなイベントは、
いつか行われるだろうと思っていた。

なにしろ、この人を措いて、このジャンルは他に誰が講義出来るだろうか!
と思うからだ。

音楽には疎い私だが、それでもかつて、カルメンマキ女史の「空へ」を聴いて、
身体がバラバラと割れ、動きの自由度が、一気に上がった体験がある。

その感動から,マキ女史とは,名越康文名越クリニック院長と3人で共著『スプリット』も出した。

それから15年余、最近は、内観による(感覚に依って形成されている身体の動かし方での)技が展開する中で、音楽がどれほどこの動きに影響を与えるか!?

当日、その場に行って、初めてわかるその事を、楽しみにしている。
御縁のある方はどうぞ!!

別窓 | 感想 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

受講者の声 光岡式英会話学習法「英会話と武術を一緒に学ぼう!!英語的身体の作り方」

昨年12月の講習会を受講された方の感想です。
ちなみに,この感想を寄せて頂いたのは、某進学校(高校)の英語の教師です。

『伝統武術を学ぶのに、日本語であるか英語であるかは、
ほとんど問題にならないことがわかりました。

身体を動かしながら自然に英語を覚えていくので、学習している、
という感覚もありません。

それでも、講習会が終わった時には、参加者全員の英会話の力は、
確実に向上していると感じました。

英語と武術を共通言語にして、さまざまなバックグラウンドの人々が楽しい時間を共有する、
そんな講習会でした。』


別窓 | 感想 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

【光岡英稔による武術・武学概論】 self-defense & awareness 男性受講者の声

SDAでは、予測ができない、答えが無い状況にどう応じるか、身体を通して学びます。

「セルフディフェンス」の「ハウ・ツー」を数多く蓄積しても実戦でその通り行くとは限りません。
なぜ「セルフディフェンス・アンド・アウェアネス」なのか。

想定できない未だ直面したことのない状況では、蓄積された知識より
「アウェアネス(気づき)」が重要です。
危機的状況をどう切り抜けるかを稽古しますが講習会自体は楽しく行われます。
「危険な状況を想定しているのだからキツイ内容の稽古じゃないか」とか、
「楽しくやっていて稽古になるのか」などの疑問を感じる方もいるかと思いますが
「楽しい」と「実戦性」は両立すると思います。

キツイことに耐えるという稽古では「キツイメニューをこなした」という
「満足感・達成感」が稽古方法への批判性を失わせ、自己正当化をすることがあります。

「耐える」という意識のもと行われる稽古の落とし穴であり甘さでもあります。
講習中によく「この技術がそのまま実戦で使えるわけではない」と光岡先生は言います。

一つの技術に対して欠点を同時に指摘します。
「何が起こるかわからない」状況を前提としているので「こうしておけば大丈夫」
ということが無いのです。

大変自由度の高い講習会で、「武術だから」と気張ってきた人は
拍子抜けするかもしれませんが、技に対しての真剣な態度があるのです。

楽しい稽古では参加者一人一人が技に対して能動的に接するようになります。
ただ方法を押し付けられる稽古との違いです。

その中で自分なりの発見があり、仮説、反証などを重ねて、技に対して積極的に向き合い、
深く身体化することが実戦性に繋がるのではないでしょうか。
だから、楽しいということに必然性があるのです。
楽しさと実戦性は両立するのです。

自分の頭で考えたことでなくても、どこかで聞いた意見を自分の意見として
言うことはできます。
しかしそれを自分で考えたことと言えるでしょうか。

どんなにすばらしい知識を蓄積して、その状況に適応しそうなことを
膨大な知識のなかから取り出してみせることができても、本当に「わかっている」のとは
「ちょっと違う」と思います。

武術においても、数々の状況を想定した多くの技術を情報として知っているということと、
本当に「身に着いた」ということはまた別の話です。

私達は安全で管理化された社会に生活しています。
ルールの無い状況、本当の実戦でどうするかなど考えなくても生きていくことができます
(昨今の状況を鑑みるに異論もありましょうが)。

しかし、そのおかげか「何が起こるかわからない」状況に対してどう対応すればよいかの
知恵がありません。

そこで光岡先生の武術観、人生観から学ぶことはとても多いと思います。

安全な社会で生活しているうえでは当然として疑いもしなかった前提を
見直す機会になります。
光岡先生「その人」が教えることに必然性のある講習会です。

講習内容の大筋は決まっていますが、受講者の質問一つで稽古方法が
ガラッと変わることがあります。
「私は武術のことを全く知らないのですが」という前置きで質問される方がいますが、
そういう方ならではの質問で稽古内容が思わぬ方向へ進むのも面白いところです。

講習会自体が、「何が起こるかわからない」ものになっています。
それを面白いと感じられる方が参加することによって、
講習会がさらに楽しいものになると思います。

別窓 | 感想 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

沖縄古伝心道流空手道講習会 受講された方の声です。

沖縄古伝心道流空手道講習会に参加をされている福原さんによる案内文です。

         *********************************

「空手」と聞いて「怖そう」と思う方も少なくないと思います。
心道流空手は、一般的に言うところの「空手」とは、かなり雰囲気が違います。

まず、痛い思いをしません。
次に、激しい運動もありません。
武道経験が無いとか、運動神経が良くないとかも(全く)問題になりません。
体の大きさや腕力の強さも関係ありません。
年齢、性別も勿論問いません。

心道流では、フィジカルの強さによらない身体の使い方を稽古します。
沖縄に古来より伝わる「型」を通じて、そういった身体の使い方を学んでいきます。

現代の生活では、身体のすべてを使って何かをするということがほとんど無くなりました。
私たちはかなり身体を使えなくなっています。

私たちが頭で理解しているよりもずっと大きな可能性を身体は秘めていますが、
私たちは、その可能性のうちの、ほんの数パーセントしか使っていません。
(それでも生活できてしまいます)

心道流の稽古では、沖縄に古来より伝わる「型」に身体をはめることによって、
近代化により便利な社会になる(そして身体をつかわないで済むようになった)以前の
時代の身体の使い方を、ある意味「思い出す」作業をしていきます。

身体を型にはめて稽古しますが、身体性を否定することとは違います。
ひとりひとり身体は違いますから、型にはめてもその人の身体です。

「型にはまった」身体の使い方をするのではなく、身体を型にはめこんで、
現代の生活では使われなくなった(しかし昔はつかわれていた)
「身体の使い方を学ぶ」のです。
「思考の型」から身体を「解放」する、と言うこともできるかもしれません。

今そこにある、その人自身の身体の可能性をどう開花させるかが重要です。
だから、体の大きさや年齢などは関係ありません。

講習会で使う型は難しいものではなく、空手・武術等の予備知識の無いことが
マイナスにはなりません。(あったとして、アドバンテージになるかといったらそうとも限りません)
講習会では受講者全員が先生から直接習います。(そのために人数制限があります)

型自体が複雑でないのは確かなのですが、型の持つ「意味」には、
言語化・情報化できない要素が多分に含まれているため、
型の持つ意味を理解している人に直接教わらなければ、学ぶことが難しいものです。
ですから、先生から直接でなければ、学ぶことのできない内容なのです。

空手というとどうしても荒っぽいイメージがあります。(それもしょうがないと思います)
それにより参加を躊躇われている方がいたら、

・興味がある人だったら、体格や経験に関係なく学べる
(あえて、やる気のある人」とは言いません。私もこの講習会で心道流空手を一年ほど
習っていますが、最初は「一回見てみようかな」というぐらいの軽い気持ちで来ました)

・誰でも参加できるが、「その程度の稽古」ということではなく、大変に奧の深いものでもある

この二点はお伝えしておきたいと思いました。

別窓 | 感想 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

「self-defense & awareness」 受講者の声

敵はどこに?
                             小原昌之
                     
 築50年を越える精神科病院の臨床心理室のソファーに私は座り、患者さんが入ってくるドアを見つめていた。私の背後は窓があるが、部屋は2階にあり、
部屋のドアは一つ。恐れが具体化した。ふと気づくと目の前に大男が立ちはだかっていて、無表情に私を見つめ、今にも私に襲いかかろうとしている殺気を感じた。「あなたは誰です?」と問うと「お前は俺が誰かを知っているはずだ。」と静かに言い、すぐに両手で私の首を締め上げてきた。助けを呼ぶにも声はだせない。ソファーに座った状態でのしかかられ、逃げようにも逃げられない。
  その時、私は気づいた。
この患者さんは私だ。そうだ私自身に違いない。だから私がこの患者さんになるのだ。この人と一体になるのだ。そのような気づきの瞬間、私と患者さんはスーッと重なりあい、解け合った。夢であった。そして、夢から覚めた瞬間、私は思わず寝床の上でガッツポーズをとっていた。
 これは十数年前に観た夢である。単科の精神病院に赴任し、それまで以上に多くの精神病の患者さんの心理療法に取り組むことになった私の中にあった不安や恐怖心が如実に映像化された夢であった。人生で観る数少ないBIG DREAMの一つでもあった。この体験からの気づきに導かれ、以来現在まで、たくさんの精神疾患を持った方々とご縁を持ち、有意義な治療の時間を過ごすことができた。今の私には、どのような精神疾患名を告げられても、その疾患にかかっていても、立派に回復し生き抜いている、心から尊敬できる人たちの名前とお顔を何人も浮かべることができる。ご縁があった皆さんが私の師である。 
 さて、まくら話が長くなったが、光岡英稔師のセルフディフェンス&アウェアネスセミナー(以下SDA)に興味深く参加した。関心は3つあった。常々心理臨床の実践をしている我が身の修練において、awarenessは核心のテーマであったことが一つ。これまで精神科病院の現場、とりわけ、精神疾患によって重大な他害行為を犯してしまった患者のための特別な医療(医療観察法による医療)に携わっている中で、「暴力」というものは、それに巻き込まれる医療者、患者、家族皆が傷つくものであり、それをどのように抑止するかというのは現場の切実なニーズでもあった。包括的暴力抑止プログラム(CVPPP)という患者さんを傷つけず「暴力」から全ての関係者を守るトレーニングを医療チームの仲間と受けてきたが、光岡英稔師のSDAから新たな気づきと学びを得ようと思ったこと。3つめには、今の私たちが生きている状況は、対人関係上のセルフディフェンスよりも、激しい温度差が頻繁になってきた昨今の気象状況、地震や津波などの自然災害、原発事故による放射能汚染による外部被爆と内部被爆、PM2.5などの大気汚染、鳥インフルエンザなどのウイルス感染など、対環境においてのセルフディフェンスが必要とされるようになってきた。このような次元までいくと、もはや逃げ場はどこにもない。それでも逃げるか、玉砕覚悟で立ち向かうか、潔く全てをあきらめるか、否、それらのどちらでもない生きる道はあるのか、ないのか。一人称の世界のawareness。二人称の世界の対人との武術的攻防、護身。そして三人称の世界の対自然環境においてのサバイバルのテーマである。
 2日間の実践講習の中で、PREDATOR-PREY ,VICTIMという三つのキーワードを軸として、いかにそれらのトラップに嵌らず、主体的、主動的に動けるかを練習していった。生きるか死ぬか、のっぴきならない世界は、本質的武の世界に重なる。野性の感覚が呼び起こされ、自らの本来のいのちの働きが実感できる喜びがそこにある。思えば、それはいついかなる時でも存在し、流動しているのだから、私たちはただ夢から醒めて、今日一日に向かって動き出せばいいだけのことだ。さあ、敵と出会ったらどうしようか。敵に用心する?敵から逃げた方が賢明な場合も多いだろう。敵とダンスする?敵は自らを理解する協力者かも知れない。敵と溶け合う?そこで自らの偏見がなくなるかも知れない。敵と遊ぶ?敵を知り、己を知れば百戦危うからず。ならば無敵だし、それは素敵なことだ。
さて、私にとって敵とは何? 敵はどこにいる? 今、気づいた・・・。
別窓 | 感想 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨
<<BACK | 北川智久 順逆曲直旋転心身 | NEXT>>